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2010年11月施行/創立九十周年記念誌より

校歌雑感 白堊会副会長 大井 淳一郎(昭和21年機械科卒業・旧職員)


 昭和16年度(1941年)入学の我々の時代、最上級生の週一時間の修身の時間の担当は校長先生(当時・佐藤孝次先生)で、4クラス合同で講堂にて行われた。
 とは言っても、昭和18年後半には戦争が激化し、勤労動員で正規の授業は行はれず、佐藤先生の講義を聞かれたのは二・三回ではなかったろうか。
 その数少ない講話中で、一度、佐藤先生が校歌を作詞なされた時の意図についてお話下さったことがありました。
 『一番では、まず学校の所在地を示した』当時、鉄筋コンクリート3階建の建物は珍しく、北方に凸版印刷株式会社、南に日大病院、南南東に豊島病院、それからやや東に府立九中(現北園高校)ぐらいのもので、東上線から眺めれば、大山駅を過ぎた頃から上板橋駅あたりの間、白堊の殿堂の威容が眺められ、また、屋上からは秩父連山の向こうに清楚な富士山が眺められました。
 後からの話しでは、戦時中、随分と、軍部より、防空上、迷彩塗装を求められたそうですが、全く要求に応ぜず、半世紀以上変わることなく白堊の殿堂が保たれました。
 『二番では本校〔取りも直さず佐藤先生〕の教育方針を示した』 戦時中の国家主義・中央集権主義の時代にあっては「自治」と言うような自由主義・民主主義的な響きのある言葉は、当時の軍部や文部官僚には、随分と非国民的に映ったことでしょう。これもガンとして改めず、我々生徒には『おのれ一人を律することが出来ずして、どうして社会に役立つことが出来ようや』と教えて下さった。
 『三番は君達の将来のみちしるべ道標を書いた』 と言っておられました。
 何十回とこの歌を歌い、そしてまた聴いたことだろうか。その都度、いつも、この時のことが私の脳裏を走馬灯のように駆け巡る。
 鍛えし心を宿した多くの教え子が、各界で活躍していることに、佐藤先生は、小平霊園の泉下で、満面に笑みをたたえていることでしょう。
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